元日本代表(1968メキシコ五輪銅メダル) 鈴木 良三

元日本代表。1958(昭和33)年卒業。所沢市在住。現役時代は西高ー立教大学ー日立製作所でプレー。国際Aマッチ24試合出場。1964年東京五輪(ベスト8)、1968年メキシコ五輪では日本の銅メダル獲得に貢献。2010年、日本サッカー殿堂入り。

まだ西高の校舎が別所沼近くにあった高1の冬にサッカー部に入部し、高2の第35回全国高校サッカー選手権大会で優勝しました。藤浪武三監督の「走れ!蹴れ!当たれ!」のスローガンのもとでの厳しい指導と「選手権埼玉三連覇」(直近2年は浦高が優勝)を果たして安堵したことが印象に残っています。

立教大学在学中の昭和36年夏に日本代表に選出され、西ドイツ(当時)のスポーツシューレ(学校)での強化合宿に参加しました。シューレにはビッシリ10面程度の芝生のグラウンドが完備し、当時の日本では想像も出来ない光景に驚きと感動を覚えました。合宿の成果は目覚ましく、それは練習環境(グラウンド)の充実がいかに技術の向上と戦績(1968メキシコ五輪銅メダル)に資するかを実感しました。

このたび、西高グラウンド人工芝導入PJTの話を聞き、OBOG各位のご協力を得てぜひ実現していただきたいと念じております。

無用なケガの防止とチーム力の向上には環境整備が不可欠です。出来るだけ多くの皆様のご支援を願ってやみません。

※ 1968メキシコ五輪銅メダル

元日本代表・元Jリーグ マッチコミッショナー 川上 信夫

1966(昭和41)年卒業。第2代サッカー部OB会長。千葉県市川市在住。西高サッカー部3年時の1965(昭和40)年に岐阜国体で優勝。西高卒業後は立教大学ー日立製作所でプレー。日立では主力(DF)としてJSL(日本サッカーリーグ)1回、天皇杯2回、JSLカップ優勝1回を獲得。JSL通算128試合出場7得点。JSLベストイレブン2回。日本代表では主将も務め、国際Aマッチ41試合出場。国際親善試合64試合出場。近年はJリーグ・マッチコミッショナーも務めた。

(写真提供:浦和フットボール通信)
7月の臨時OB総会で久しぶりに西高を訪れ、JSL(日本サッカーリーグ)で鎬を削った今井(敏明)君や日本代表や日立製作所のチームメートだった西野(朗)君との再会はとても楽しく懐かしい時間でした。

私が西高サッカー部の2年生時の1964(昭和39)年に仲西駿策先生が赴任されました。先生は当時20歳代後半で埼玉教員チームのバリバリの現役プレーヤーで、我々と一緒にグラウンドに立ち、それは激しく厳しいご指導をされました。先生の激しく厳しい中にも理論と愛情に満ち溢れたご指導のおかげもあり、3年生時には岐阜国体で優勝し「日本一」の栄冠を獲得することが出来ました。

西野君がトークセッションで「西高グラウンドは原点」と話していましたが、私も同じです。日立製作所で天皇杯他の数々のタイトルを獲得出来たのも、日本代表で国際Aマッチ41試合に出場しキャプテンマークを腕に巻くことが出来たのも、国際親善試合64試合に出場し、ペレ、ベッケンバウアー、エウゼビオ等の「世界のレジェンド」とマッチアップ出来たのも、現役引退後もJリーグのマッチコミッショナーとしてサッカー界に携わることが出来たのも、すべては西高グラウンドと仲西先生からのご指導がスタートであり原点です。

しかし現在の西高グラウンドも拝見しましたが、残念ながらお世辞にも全国大会出場や日本代表クラスの選手を育成する環境には程遠いと言わざるを得ません。

ご存知の方も多いと思いますが、私の息子も西高サッカー部OB(健さん:1992年卒)です。また妹二人(昭子さん:1968年卒、志津子さん:1969年卒)西高の卒業生です。「川上家一同」で人工芝化プロジェクトに賛同し、全面的に協力し、未来の西高生への「古豪復活」のための環境整備に少しでもお役に立てれば幸いです。

若いOBOGのみなさんがプロジェクトに一生懸命に取り組んでいるのは非常に頼もしく、また今井君のプレゼンテーションでは今回のプロジェクトは全国の県立高校でも前例の無い「西高モデル」とのこと。西高に関係するすべてのみなさんが一枚岩となって「西高モデル」を成功させて、再び『西高』の名を全国に轟かせましょう!

(公財)日本サッカー協会 黛 俊行

1974(昭和49)年卒業。さいたま市在住。現役時代は西高ー日体大でプレー。西高3年時には主将として全国高校選手権ベスト8。 日体大卒業後は川口工高等に勤務。2003年~06年までは西高サッカー部第5代監督。2007年から(公財)日本サッカー協会に転じ、審判委員長等の要職を歴任。

私は大宮の日進中でサッカーを始め、練習試合で訪れた西高の校風に憧れて進学しました。西高での3年間は、ほぼサッカーに明け暮れる毎日でした。校舎の灯りを頼りに毎晩9時近くまでボールを蹴っていたように思います。仲西(駿策)先生のご指導の下、高校選手権に出場し優勝候補と騒がれていましたが、結果はベスト8に終わりました。悔いがないといえば嘘になりますが、本当に充実した3年間でした。

西高卒業後は日本体育大学に進学、高校の体育教師として52歳まで勤務し、最後の4年間は母校である西高で教鞭を執らせていただきました。その後(公財)日本サッカー協会から契約審判インストラクターとしてお誘いを受け、悩んだ末に転職し現在に至っています。

今回の西高グランドの人工芝化の知らせを聞いて、今後も「サッカーのまち浦和」を代表するチームの一つとして浦和西高が存在するためには、必須な環境だと感じています。また、西高サッカー部が活躍する姿を見るためだけでなく、普段の授業やその他の教育活動が安全且つ円滑に行え、土埃による地域の被害を軽減するためにも、人工芝化にできる限りの支援をしたいと思っています。

※高校選手権決勝戦で対戦するはずだった、北陽高(大阪)の野々村元監督(左)と。

 

タカラバイオ㈱参与 松崎 修一郎

1974(昭和49)年卒業。京都府在住。西高3年時に全国高校選手権に出場、CFとしてベスト8進出に貢献。1980年に早稲田大学から宝酒造㈱に入社後は常務取締役、専務取締役、タカラバイオ㈱代表取締役副社長等を歴任。

西高での3年間はサッカー漬けの日々でした。サッカーが楽しくて仕方がありませんでしたね。

3年生の冬、全国高校サッカー選手権大会において準々決勝で負けてしまい、目標としていた全国優勝できなかったことはとても残念でした。とはいえ、優勝を目指し仲間達と汗を流した西高グランドでの日々は充実した貴重な思い出となっています。

今回の西高グランドの人工芝生化によって、技術的にも戦術的にも更に高度なサッカーが期待できるのではないでしょうか。西高サッカー部OBとして今からとても楽しみに思っております。遠く京都の地から応援しております。

※ソムリエの田崎真也氏と。

 

BS日テレ代表取締役社長 中山 良夫

現役時代は西高-早大-読売クラブでプレー。日本ユース代表、日本学生選抜、日本代表候補。 筑波大学大学院ではスポーツ社会学を専攻。 日本テレビ入社後は、スポーツ・情報局スポーツセンター長、事業局長、取締役執行役員等を歴任。2018年から現職。

西高グラウンドへの愛惜

半世紀も前ではあるが、中学3年の冬になろうとしているのに受験先を決めかねていた私に進路指導の教師は、「西高はやめておけ」というのである。「不良になるぞ」とも言われた。西高の校風に学生運動の残滓を見ていたのだろう。そんな“忠告”を押し切り西高を受験先に決めたのは、その冬の全国高校サッカー選手権に出場した西高の絶対的エースで、超高校生級と謳われた西野 朗先輩の華麗なプレーと端然とした姿をテレビで見たからである。東部の田舎でサッカー部もない中学校出身の私が、西野さんに憧れ、西高でサッカーをすることを切望し、夢になった。なぜそこまで西高サッカーに憧れたのだろう。西野さんの存在が大きかったが、15年間の短い人生の中でも地元での普段の暮らしに閉塞感を感じ、浦和という“都会”に飛び出したかったのだろう。

西高に入学した私はすぐにサッカー部に入部するのだが、まもなく挫折を味わう。同級生には浦和の少年団出身者が多くいて、素人は私1人といって

いい。ボールをまともに蹴れない私は、同級生にさえ「ゴール裏でボール拾いしてろ!」と言われてしまうのである。さすがにこれには凹んだ。でも、不思議と部をやめようとは思わなかった。やめることよりもこの中でレギュラーになって試合に出るためにはどうしたらいいか、という考えのほうが強かった。そして、出した答えがGKになることだった。同学年にGKはいなかった。足技、テクニックのない自分が試合に出るための唯一の方法と考えた。そこから私と西高グラウンドとの闘いの日々が始まった。

GKの専門知識などなかったので、先輩のセービングを見様見真似でボールに飛びつく。とにかく土の上でもがいた。膝はいつも擦り傷だらけで血が滲まない日はなかったし、両腕の肘から手首にかけて大きく腫れあがり、シャツが触れるだけでも激痛がしたものである。西高のグラウンドは、水捌けが良く、浦和界隈では日本一のグラウンドとも言われたが、私にとっては硬く、痛いだけで苦痛の練習場だった。それでも一人居残り、シュート板に向かってボールを蹴り、セービング練習をした。家までは電車を乗り継ぎ1時間半弱ほどかかるのだが、帰宅が遅いのを心配した母が帰り道の途中まで迎えに出てきて、薄暗い街灯の下で私を待っていた。

その後、私は2年生になって西高のレギュラーでもないのに国体の埼玉県選抜に選ばれた。当時、“鬼の暁司”といわれた、「赤き血のイレブン」の舞台、南高の松本暁司先生の推薦があったということだった。人生には不思議な、思いも寄らない出来事が訪れるものだが、私にとってはこの出来事が大きな転機だった。それからユース代表、大学選抜、日本代表候補、そして大学院に通いながら読売クラブでプレー。25歳で就職するまで現役を続けた。

私の人生の土台は間違いなく西高グラウンドで築かれた。西高のグラウンドがあったからこそ今の自分がいる。いま、OB諸氏はじめ関係者の方々が西高グラウンドを人工芝化するべく奮闘されていると聞く。私も微力ながら応援させていただく。西高を離れて46年、すっかり疎遠になった思い出のグラウンドが多くの方々のご支援、ご尽力を賜り、鮮やかなグリーンのグラウンドに生まれ変わる日が来ること、そして、新たなグラウンドでボールを蹴り、人生を築き始める生徒さんが一人でも多く生まれることを願ってやまない。

スペイン語通訳・翻訳・執筆業 小田 郁子

1978(昭和53)年に浦和西高卒業。1980年に学習院女子短期大学卒業。1980年に三菱重工に入社して本社勤務6年後、1986年にスペインに渡り、28年在住を経て、2014年よりさいたま市在住。2000年よりスポーツニッポン新聞社のスペイン特別通信員としてスペインサッカー情報などを担当。尚、1986年にFCバルセロナのソシオ(会員)となり、現在もカンプ・ノウ・スタジアムの南ゴール裏1階に指定席を持っている。

全ての始まりはサッカーにはまったことから、そして私の人生最初の挑戦であり冒険は、浦和西高を受験して、サッカー部のマネージャーになることでした。しかし当時のサッカー部は女子マネージャーを持たない方針だったので、1年間の見習いの末に2年生から正式に初代女子マネージャーになることができました。そして今はもうない浦和西高グラウンドのセメントのU字ブロックに座って過ごした「石の上にも3年」から、サッカー絡みで世界観が広がり、その後、サッカー好きが高じてスペインのバルセロナに28年住み、その間に他の欧州の国々や南米アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイまでサッカー観戦に行くことができ、今でもサッカーに関わる仕事ができています。

 

どうしてサッカーにはまったのか?その話をするとかなり長くなります。

その大きな要因は、中学2年生の夏に、父親の仕事先が東京に転勤となり、生まれ育った富山県魚津市から埼玉県浦和市(現さいたま市)に移り住んだことがきっかけでした。そして転校した原山中学校は、西野朗さんの出身校でもあり、サッカー部が強かったし、その冬の第52回全国高校サッカー選手権大会(1974)の埼玉県代表は浦和西高だったことで、直ぐに浦和がサッカーの町であることを感じました。更に中学3年生の時に1974西ドイツW杯の試合をテレビで見たことで、世界のサッカーに大きな衝撃を受けました。そして当時のクラスメート達が「高校に行ったらサッカー部に入りたい」と話していたの聞いて、自分も高校に行ったらサッカーに関わりたいと思い始めました。それで高校受験の参考書を買う前に、改めてサッカーのルールブックを買って読んだものです。

 

では、どうしてスペインのバルセロナに28年も住んだのか?その話をすると更にかなり長くなります。本当に長いです。

今、振り返ると、時が流れていく中で、『サッカーは楽しい、面白い、飽きない!』の気持ちがずっと続いていること、いつも気になるチームや選手達が存在していたこと、そして幾つかの偶然と幸運が重なったからだと思います。とにかく「試合は最後まで何が起こるかわからない。15秒もあればゴールが決まる!」その期待感がたまりません。

 

先ずは1974西ドイツW杯決勝:西ドイツ(2-1)オランダ戦を、当時、唯一の海外サッカー番組だった東京12チャンネル(現テレビ東京)の『三菱ダイヤモンドサッカー』で見て、『トータルサッカー』で一世風靡したオランダのヨハン・クライフのファンになり、彼が所属していたスペインのFCバルセロナ(以下、バルサ)を注目するようになりました。

 

そして無事に入学した浦和西高の1年生の担任が、サッカー部監督の仲西駿策先生であったことが幸運の始まりでした。もっとも先ず最初に言われたのは、「サッカー部は女子マネは持たない方針。もしなるなら馬鹿じゃ困る。」でした。それでもしつこく懇願したら、「直ぐに認めることはできないが、チームの練習記録をつけることから始めてみて、それからどうなるか見てみよう。」と言われました。それからは勉強はなるべく授業に集中し、放課後に練習を、週末は試合を見て、とにかくサッカー部の後ろにくっついて過ごし、そしてサッカー雑誌を買って読み、スコアブックの付け方を覚えて、独自でノートに練習記録を書いて過ごしました。そして1年間の見習いの末に2年生から正式に初代女子マネージャーになることができました。今でも仲西先生を始め、同じ時期を過ごした先輩達、同級生、そして後輩達に感謝しています。

 

 

<浦和西高サッカー部(1978年卒業アルバム)>

 

その仲西先生から「馬鹿じゃ困る。」と言われたこともあって奮起し、浦和西高卒業後は学習院女子短期大学(学習院女子大の前身)への推薦入学が決まっていました。それを仲西先生に報告したところ、「学習院大学サッカー部のマネージャーになれるように頼んでおいたから、入学したらサッカー部監督の滝井敏郎先生を訪ねなさい。」と言われ、正直、とても驚きました。でもそのおかげで大学サッカーの世界を知ることができました。

 

更に刺激を受けたのは、1978アルゼンチンW杯決勝:アルゼンチン(3-1)オランダ戦をNHKの生放送で見て、俄然、その次の1982スペインW杯の観戦に行きたいと思いました。そして翌年1979ワールドユース(U-19)大会が日本で開催された際、、これまた仲西先生の紹介で大宮公園サッカー場(現NACK5スタジアム大宮)でアルバイトする機会があり、1次リーグB組のセサル・ルイス・メノッティ監督とディエゴ・マラドーナを中心としたアルゼンチン、ポーランド、ユーゴスラビア、インドネシアを、そして準々決勝でスペインの試合を直に見ることができたことも幸運でした。同年代の外国選手達が真剣勝負に挑む姿を目の当たりにして、「彼らがサッカー界の次の世代だ!」と感じ、特にスペインの試合を見て、ボール扱いが巧いプレースタイルが気に入りました。スペインの選手達は、皆、感じの良い選手達で、中でもマルコス・アロンソ(アトレティコ・デ・マドリー、後にバルサでプレー。尚、同じ名前の息子が今季にチェルシーからバルサに移籍している)のファンになりましたが、「試合で頑張ってね!」と、いつかその一言が言いたくてスペイン語を少しずつ独学で始めました。

 

その後、『三菱ダイヤモンドサッカー』の影響で、「日本サッカー界に貢献している会社に入りたい」一心で、三菱重工の就職試験を受け、当時、東京丸の内にあった本社勤務になりました。そのおかげで日本サッカーリーグの三菱重工業サッカー部(浦和レッズの前身)の選手達と知り合う機会を持ち、毎週のように試合を観戦に行き、三菱重工業サッカー部後援会に入って広報誌作りに関わっていました。又、在職中にスペイン語クラブに入って、メキシコ人の先生について学びました。三菱重工では社会人として良い経験をさせてもらいました。勿論、今でもひいきのチームは浦和レッズです。埼玉スタジアムで浦和レッズがゴールを決めた時に、電光掲示板に三菱重工製の宇宙ロケットが発射されるシーンを見る度に感激してしまいます。

 

そしてしっかり働きながら、旅行費用と有給休暇を貯めて、会社を首になる覚悟で、中学3年生から目指していた1982スペインW杯を見に行くことができました。初めての欧州の地は、どんより曇った空のイングランドのロンドンでしたが、夜にスペインのマドリーに着いて、翌朝、青く澄み切った空を見て、その美しさに驚いたのを覚えています。同じ空なのに、日本と違って何処までも高く広い空だったのです。そして1982スペインW杯の大会ポスターは、原色を基調にした激しい色使いのデフォルメが特徴なスペインの巨匠ジョアン・ミロが作成したインパクトの強いものでした。

 

その1982スペインW杯の2次リーグから決勝戦までの試合を観戦したツアーに参加していた人達は、年代も職業も様々で個性的でしたが、各自のサッカーに対する思い入れは半端なかったです。それ以上に印象的だったのが、スペイン人のサッカーに対する情熱と親しみやすさでした。自国開催のW杯でスペイン代表は2次リーグ敗退でしたが、ぶつぶつ文句を言いながらも最後まで「エスパーニャ!(=スペイン!)」と応援し続け、決勝で西ドイツを破って優勝したパオロ・ロッシが主役だったイタリアに「ブラボー!」と大拍手を送っていました。『良いものは素直に認める』そんな度量の広いスペイン人を見て、いつかここに住んでみたいと思いました。

 

その1982スペインW杯では首都のマドリーが中心で、バルセロナには行くことができませんでした。それで日本に帰ってから、何としてもバルセロナに行きたくて、バルサのクラブの会長宛に「是非ともバルサの試合を見たいのでチケット購入の方法を教えて下さい。」との依頼の手紙をスペイン語で送りました。すると、何とある日、当時のバルサのホセ・ルイス・ヌニェス会長から返事がきたのです。その手紙には「あなたがこの手紙を持ってクラブを訪ねてくれたら、バルサの試合にご招待します。」と書いてあったのです。これはもう行くしかないと思い、その手紙を持ってバルセロナに行き、バルサのクラブ事務所を訪ね、約束通りにカンプ・ノウ・スタジアムのメインスタンドに招待されて試合を見ることができました。このことが大きなきっかけとなり、後に三菱重工を退社し、片道チケットで飛行機に乗り、日本からスペインに旅立ち、気がついたらスペインの主にバルセロナに28年住んでいました。全ての始まりはサッカーにはまったことからでした。

 

1986年4月から住み始めたバルセロナでスペイン語学校に3ヶ月通った後、縁あってバルセロナ市内観光通訳ガイドを始めました。それはちょうど1986年10月に、バルセロナが1992年夏季五輪開催地に決まったタイミングで、町に活気が生まれ、大きく変化していった頃でした。バルセロナはもともと観光地でしたが、五輪開催地となったことで日本を含めて世界中から更に観光客が押し寄せてきました。バルセロナの町は、カタルーニャモダン主義の代表的なアントニ・ガウディの建築で有名な聖家族教会(サグラダ・ファミリア)やグエル公園、ピカソ美術館、ミロ美術館、そしてバルサのカンプ・ノウ・スタジアム内にバルサスポーツ博物館などがあり、観光客と一緒に回るのは実に楽しかったです。バルセロナはティビダボの丘から地中海に面している港湾都市で、地形が日本の神戸市と似ていることもあって姉妹都市の関係で、1年を通して温暖な地中海性気候で過ごしやすく、その上、食べ物も美味しいし、バルサと共にもう一つのクラブのエスパニョールの試合も楽しめて、何よりもサッカー好きにはたまらない環境でした。

 

バルサが大きく変わってきたのは、1974西ドイツW杯から好きだったヨハン・クライフが1988年からバルサの監督となり、パスワークを活かした攻撃的で美しいサッカーのプレースタイルで、現在のバルサのサッカー哲学の原点となった『ドリームチーム』の時代を築き上げたことです。しかも当時のバルサはカンプ・ノウ・スタジアムの隣のサブグランドで練習をしていて、日によってはメディアだけなくファンにも一般公開していたので、時間があれば練習を見に行っていました。飛んできたボールを拾うことができる近距離から、選手達と一緒に練習しているヨハン・クライフ監督のプレーを見て目を奪われました。何しろ、現役の選手達よりも際立って巧いのです。選手として憧れていたヨハン・クライフは、監督としてもクレバーで格好良くて優しい方でした。後に彼と話した時に、「サッカーは失敗を繰り返すゲーム、従って常に改善することができる。サッカーを楽しみながら、何度もトライすることが大切です。」と諭してくれました。そして練習が終わると選手達に近づいて話せたり、サインをもらうことができたり、信じられないかもしれませんが、選手の方から「元気?次の試合のチケットは持ってる?」と聞いてくれるなど、親近感がありました。その逸話ですが、両親がバルセロナに来た時に、ある選手から試合のチケットをもらってカンプ・ノウ・スタジアムで家族で観戦した思い出があります。

 

<ヨハン・クライフ監督(FCバルセロナ:カンプ・ノウ・スタジアム横)>

 

その後、バルサが低迷した時期もありましたが、2003年からフランク・ライカールト監督の下、『El Mago(=エル・マゴ=魔術師)』と呼ばれたロナウジーニョを中心としたチームで鮮やかに復活し、2008年からペップ・グアルディオラ監督が就任した『ペップ・チーム』で史上初の6冠達成(スペインリーグ、スペイン国王杯、欧州CL、欧州スーパー杯、スペインスーパー杯、クラブW杯)した歓喜も味わいました。思い返すととても恵まれた時代でした。今ではバルサの練習場が、バルセロナ市郊外のジョアン・ガンペール・スポーツセンターに移って、練習も非公開になってしまい、選手達となかなか触れ合うことができなくなったのはちょっと残念です。

 

忘れられない特別な年は1992年です。5月20日の欧州チャンピオンズ杯(現欧州CL)決勝をロンドンの旧ウェンブリー・スタジアムまで見に行き、バルサが延長でサンプドリアにロナルド・クーマンのゴールで1-0で勝って、クラブ史上初優勝を果たした目撃者になることができました。その19年後の2011年5月28日に、今度は新しくなったウェンブリー・スタジアムでの欧州CL決勝で、バルサがマンチェスターUに3-1で勝った試合を見ることができたのも最良の思い出の一つです。

 

<2011欧州CL決勝:FCバルセロナ(3-1)マンチェスターU(ウェンブリー・スタジアム)>

 

又、1992年夏にはバルセロナ五輪(1992年7月25日~8月9日)が開催されました。私はバルセロナ市内観光通訳ガイドをしていた関係もあり、TBSテレビの通訳として関わる機会を持ち、開会式に始まり、主に日本選手達の競技を取材しながら、閉会式まで担当することができました。自分が住んでいたバルセロナの町で五輪が開催された興奮と歓喜で満ち溢れた16日間を経験した暑い熱い夏でした。それだけに2020東京五輪が新型コロナ感染拡大の所為で1年延期になった上に、結局、無観客で行われたのは非常に残念な限りでした。

 

その1992バルセロナ五輪で、最も印象に残っているのは、日本選手達の活躍もさることながら、8月8日にカンプ・ノウ・スタジアムで行われたサッカー決勝で、スペインがポーランドに大接戦の末、試合終了間際にキコのゴールで3-2で逆転勝ちして五輪初優勝を飾った試合です。スペインは地方性が強く、バルセロナがあるカタルーニャ州はスペイン語の他に、カタラン(カタルーニャ)語が話され、『ここスペインではない!』との意識を持っている人も多く、そのカタルーニャ州の象徴の1つでもあるカンプ・ノウ・スタジアムで、当時のスペイン国王フアン・カルロス1世の参席の下、スペイン代表が優勝してスペイン国旗とカタルーニャ州旗の両方が振られた光景は、おそらく2度と起こらないかもしれません。この五輪からサッカーに年齢制限(23歳以下)が導入されたスペイン代表には、ペップ・グアルディオラ(現マンチェスター・シティ監督)、ルイス・エンリケ(現スペイン代表監督)等がプレーしていました。

 

<1992バルセロナ夏季五輪:モンジュイク・オリンピック・スタジアム>

 

バルセロナでの生活の1年のルーティンは、サッカーシーズンと並行して過ぎていきました。8月半ばからスペインリーグが開幕すると、週末はスペインリーグ前半戦、週中は欧州カップ戦のグループリーグの試合で1週間が過ぎていきます。12月末のクリスマス休暇で一息ついた後、新年からまた週末はスペインリーグ後半戦でリーグ優勝争い、そして残留争いが激しくなり、週中はスペイン国王杯、そして欧州カップ戦のベスト16から決勝へと佳境に入った白熱した試合が5月末、6月始めまで続きます。その後は2年毎にユーロ(欧州選手権)、ワールドカップ、そしてコパ・アメリカ(南米選手権)などで楽しみました。夏休みの時期は公式戦はないものの、来季の移籍・補強の話題で楽しみ、7月末からプレシーズンマッチが始まり、また8月半ばから新シーズンが始まるのです。

 

勿論、長い年月の間には、浮き沈みがあり、ひいきのチームが負けた試合の悔しさで選手以上に気持ちが落ち込むことも多々ありましたが、それは次に勝った試合の喜びで立ち直れたものです。信条の一つとしているのは「負けた試合では決して泣かない」ことです。そして新シーズンが来ると、選手達の移籍や世代交代でなどでメンバーが入れ替わった新チームにまた期待してしまうのでした。

私が住んでいた頃のスペインは、スペイン代表やスペイン1部、2部リーグを中心に、U-23代表からUー12の若手から子供達の試合もテレビで多く放送されていました。更に有料放送に入れば、欧州主要リーグや南米リーグの試合も見ることができたので、気がつくとほぼ毎日、何かしらの試合を見ることができました。そんな中でそれまで知らなかった新しい選手を見つけるのも楽しいものでした。

 

全くの個人的な見解ですが、そこそこコンプレックスがある選手の方が伸びる可能性があるように思います。それはフィジカルだけでなく、性格や精神的な面と様々ですが、共通しているのは、そのコンプレックスをいつしか逆手にとって個性的な選手に変わっていけることです。初めて見た時の印象はいわゆる普通の若手選手でも、トップチームでプレーするチャンスを掴み、ピッチに入ると特別な輝きを放ち始め、気がついたら無意識のうちに目で追ってしまう選手に変わっていったケースを幾度も見てきました。

 

例えばバルサでは、試合前に緊張からよくトイレで吐いていたペップ・グアルディオラ(現マンチェスターシティ監督)がベルント・シュスターに、バルセロナ郊外の町から電車に乗って練習に通っていたシャビ・エルナンデス(現バルサ監督)がペップ・グアルディオラに、カタルーニャ州の小さい町の出身で後にバルサのキャプテンとなったカルレス・プジョル(バルサで引退)がパオロ・マルディーニに、12歳で注目されてレアル・マドリーの入団をやめてバルサを選んだアンドレス・イニエスタ(ヴィッセル神戸)がマイケル・ラウドルップに、成長ホルモン分泌異常を抱えてアルゼンチンから13歳でバルサの入団テストを受けたリオネル・メッシ(パリSG)がロナウジーニョに影響を受けたと言っていました。きっとこれは世界共通で、誰にも少なからず影響を刺激を受けた選手がいて、その背中を追いかけながら、日々、練習を続けて成長していった姿を、間近で見てきました。そしてバルサの、スペイン代表の将来を担うペドリやガビは、きっとシャビ・エルナンデスやイニエスタの背中を追って成長しているのだと思います。

 

尚、1986年9月からバルサのソシオ(会員)となり、現在もカンプ・ノウ・スタジアムの南ゴール裏1階に指定席を持っています。1986年に入会した頃は未だゾーン指定の立見席でしたが、1996年頃からゴール裏にも座席が作られ、自分の指定席を持てるようになりました。

今季でバルサのソシオ(会員)になって37年目となりますが、2011年秋にはクラブからソシオ25周年記念式典の招待状が届き、11月25日にカンプ・ノウ・スタジアムで、ソシオ25周年記念のクラブ紋章の銀バッジと認定感謝状を受け取る出来事がありました。その時、バルサのクラブ事務所に聞いたら、「おそらく日本人ではあなたが初めてです。」と言われ、非公式ながら名誉ある日本人第1号となり、スペインで長く過ごした日々の1つの証になりました。

 

<FCバルセロナのソシオ25周年記念式典(2011年11月25日:カンプ・ノウ・スタジアム)>

 

一方、スペイン代表も1982スペインW杯からずっと応援してきましたが、主要大会でなかなかベスト8の壁を破ることができずにいました。しかし気運の高まりを感じたのは2006ドイツW杯でした。スペインは決勝トーナメント1回戦で、決勝に進出したフランスに敗れたものの、そのスペインを指揮した故ルイス・アラゴネス監督が『ティキ・タカ』と呼ばれる複数のパスコースを作りながら、辛抱強く細かいショートパスを繋いで攻撃を仕掛けるプレースタイルはかなりインパクトがありました。そのチームがベースとなり、2008オーストリア・スイス欧州選手権に1964スペイン欧州選手権初優勝以来、実に44年振りに優勝すると、引き継いだビセンテ・デル・ボスケ監督で2010南アフリカW杯初優勝を果たし、更に2012ポーランド・ウクライナ欧州選手権で大会2連覇し、史上初の主要国際大会3連覇の快挙を達成して、『La Roja』(=『ラ・ロハ』=『赤い』の意味でスペイン代表の愛称)旋風を巻き起こしました。ちょうどバルサとスペイン代表が活躍した時期が重なり、負ける気がしない勝機を感じたのは偶然ではないと思います。

尚、スペイン人の名誉のために一言。スペイン代表の選手達は試合前のスペイン国歌を歌わないとよく言われますが、実は現在のスペイン国歌には『歌詞』がないので、歌いたくても歌えないので、「ラ~ラ~ラ」とハミングするだけです。

 

<シャビ・エルナンデス(FCバルセロナ):2010南アフリカW杯優勝のスポニチ新聞と共に記念写真>

 

さて、サッカーの取材に関わる様になったのも偶然によるものです。バルセロナ市内観光通訳ガイドをしていた時に、日本から来た団体旅行のお客さんの中に、スポーツ関係の出版社の方がいらして、どうもバルセロナ市内観光の時にサッカーの話をしたのが印象に残ったらしく、「そんなにスペインのサッカーが好きなら、サッカー雑誌の編集部に模擬原稿を出してみたらどうか?」と誘って頂いたことがきっかけでした。それで模擬原稿を送ってみたら、ある日、日本の某サッカー雑誌の編集長から国際電話がかかってきたのです。

 

<アンドレス・イニエスタ(FCバルセロナ)>

 

それから、当時、バルサでプレーしていたイングランド代表のゲーリー・リネカーのインタビューを行ったのを皮切りに、バルサのサッカー哲学の基礎を築いたヨハン・クライフ監督、後に日本のJリーグの横浜フリューゲルスでプレーしたパオロ・フットレ(アトレティコ・デ・マドリー)、横浜マリノスでスペイン人ブームの火付け役となったフリオ・サリナス(バルサ)、金髪をなびかせて矢のようなスピードでゴールに向かうクラウディオ・カニーヒア(エラス・ベローナ/アタランタ・ベルガモ)、日本が初めて出場した1998フランスW杯初戦の相手アルゼンチン代表のストライカーのガブリエル・バティストゥータ(フィオレンティーナ)と鬼軍曹のように選手に厳しいが女性には優しいダニエル・パサレラ監督、バルサの低迷期ながら一際輝いていたハビエル・サビオラ(バルサ)、バレンシアのキャプテンでPK、FKの名手のガイスカ・メンディエタ(バレンシア/バルサ)、再びバルサの栄光の時代を築いた中心選手だったロナウジーニョ、シャビ・エルナンデス、アンドレス・イニエスタ、カルレス・プジョル、リオネル・メッシ、2002日本・韓国W杯で日本と対戦したロシア代表のアレクサンドル・モストボイとバレリー・カルピン(セルタ・デ・ビーゴ)、そしてデビュー当時から注目し続け、サガン鳥栖でプレーしたフェルナンド・トーレス(アトレティコ・デ・マドリー/リバプール)等、色んな選手や監督にインタビューすることができました。まあインタビューができるまでにはかなりの時間が必要で苦労しましたが、実際に会って彼らから話を聞けたことは素晴らしい経験でした。

 

<フェルナンド・トーレス(アトレティコ・デ・マドリ-)>

 

そして2000年からは縁あってスポニチのスペイン特別通信員を始めました。スペインに住んでいた頃は、スペインリーグにやって来た城彰二さん(バジャドリー)、西澤明訓さん、中村俊輔さん(ともにエスパニョール)、大久保嘉人さん、家長昭博さん(ともにマジョルカ)等を担当しました。

特に城選手の取材のために、バジャドリーに行って約4か月のホテル生活を送りました。一日の始まりは、早朝に地元新聞をキヨスクに買いに行き、城選手やバジャドリー絡みの記事をチェックして日本に情報をFaxで送り、午前11時頃から始まる練習を見に行って、その後、囲み取材をしてその日の情報をFaxで送り、試合はホームもアウェーも同行しました。取材のために初めて携帯電話を持ちましたが、未だパソコンは持っておらず、日本への報告はもっぱら電話と手書きのFaxで行っていました。まるで浦和西高サッカー部時代のように、毎日、練習内容や試合状況をノートに書きまくっていたのです。そしてスポニチにはありがたいことに、日本に帰って来てからもスペインサッカー情報などを担当させてもらっており、アルバイトながら今年で22年目を迎えました。

 

さて、本当に長くなりました。自分でもよく思うのですが、長いスペイン生活で一番自分が変わったことは、かなりお喋りになって話が長くなったこと、かなり自己主張が強くなったこと、かなり好奇心が強くなったこと、そしてかなり気が長く辛抱強くなったことです。逆に言うと、スペインでは無口で短気だと何事にも苦労するかもしれません。

 

最後に浦和西高グラウンドについて。私が在学していた時代は、水はけがとても良く、雨が降ってもすぐ乾き、夏になると仲西先生が散水車で水を撒いていたのを覚えています。そして多くの高校サッカー部が浦和西高に練習試合にやって来たし、公式戦の会場になっていました。それが今では雨が降ると水溜りができてしまうのは残念です。しかも現在の高校サッカーの公式戦は芝、人工芝で行うそうなので、浦和西高サッカー部が更なる成長・飛躍を遂げるためには、グラウンド人工芝化が必要なのは明らかです。そのために是非とも応援していきましょう!人生ではどんなに努力しても、いつも夢や希望が叶うわけではありませんが、それでも何とか叶えられるものもあるはず。それが浦和西高グラウンドの人工芝化であってほしいものです。これは正に新たな挑戦であり冒険です!そしてサッカーを色んな形で楽しんでいきましょう!

フリーライター 小室 功

1979年卒業。千葉市在住。 サッカー専門誌を経て98年に独立。還暦を過ぎてもなお、さまざまなカテゴリーの試合に足を運ぶことがモットー。

中学時代までサッカーの“サ”の字もわからず、浦和が全国有数のサッカーどころだとか、西高が高校サッカー界における伝統校のひとつであるとか、そういう歴史をいっさい知らなかった私が、還暦を過ぎた今でもこうしてサッカー関連の仕事を続けられるのは、すべて西高との出会い、当時の監督である仲西駿策先生との出会いがあったからです。

サイドキックもおぼつかないような、まったくのサッカー初心者にもかかわらず、仲西先生は「一緒に練習するぞ!」と、県選抜になるようなレベルの高い選手たちと分け隔てなく、1年生の頃から練習させてくれました(つまらないミスをして先輩たちに迷惑をかけたくないと思い、ごっちゃになって2対1や3対2などをやる時は先輩たちと組まないように、並ぶ順番に知恵を絞っていましたが!)。

部員が今のように100人を超えるような大所帯ではなかったからかもしれません。でも、こうした仲西先生の指導方針の下、サッカーが大好きになり、少しでもうまくなりたいと思いながら夢中になって練習し、サッカーの奥深さに魅了された西高時代があればこそ、今の私につながっていると実感しております。

人工芝グラウンドになり、西高のサッカーを取り巻く環境がより良く整備されていくのはOBのひとりとして願ってもないことです。実現に向けて、心より応援したいと思います。

しあわせ動物写真家 福田 幸広

しあわせ動物写真家。1984(昭和59)年卒業。川口市在住。「動物たちのしあわせの瞬間」(日経ナショナルジオフィック社)等著書多数。写真絵本「オオサンショウウオ」で小学館自動出版文化賞受賞。

私の動物写真家としての歩みの第一歩は、西高1年生の春休みです。終業式が終わるや夜行急行に乗り、一人北海道の地でタンチョウを撮影したことです。

動物写真家になることは容易いことではありませんでしたが、西高時代の経験が糧になり恩師や友人の支えがあって、ここまで来られました。西高は動物写真家としての原点です。

西高グラウンド人工芝化の話を聞いて、今度は私が西高にご恩返しをする番だと思い、全面的に応援します。創立90周年の2024年に、鮮やかな緑色の西高グラウンドが、西高のシンボルだけでなく地域のランドマークになることを願っています。

『オール西高』で人工芝化を実現しましょう!

公式HP https://topoutimages.com

弁護士 大塚 信之介

弁護士。1997(平成9)年卒業。さいたま市浦和区在住。埼玉弁護士会所属。大塚信之介法律事務所代表。

西高では生徒会長を務めるなど生徒会活動に打ち込みました。西高を盛り上げたいという気持ちで仲間達と生徒会について議論したことは、私にとって大きな財産です。今思えば、弁護士として必要な「リーガルマインド」は西高生徒会活動でも養われたのだろうと思います。

西高グランド人工芝化は、西高の価値を大いに高めることになるでしょう。今度は、OBとして、西高グランド人工芝化を応援し、西高を盛り上げていきたいと思います。

事務所HP https://otsuka-lo.jp

初代女子サッカー部監督 酒井 昌弘

1957年生まれ。現役時代は主にDFとしてプレー。大学卒業後、新座高~志木高を経て2003年西高に赴任、2018年まで男子サッカー部と兼務しながら女子サッカー部初代監督として礎を築く。現在は、入間向陽高校女子サッカー部顧問。

こんにちは。2003年から2018年まで浦和西サッカー部、女子サッカー部の顧問を務めさせていただいた酒井です。浦和西サッカー部には長い歴史があります。最大の栄光は選手権全国制覇ですが、最近ではインターハイ出場あり、女子は関東大会8度出場などなど、数々の栄光がありました。

その歴史に、上記の結果と匹敵するほどの出来事が、今回の人工芝プロジェクトです。実現するにはみんなの熱意・協力が必要です。在校生・卒業生の力を結集してこのプロジェクトを成功させましょう。思い出深い西高の、新しい人工芝の上に立てる日を、心待ちにしています。

元サッカー部顧問 安元 利充

2001~2013JFA1級審判員(Jリーグ担当)JFA1級審判インストラクター、JFA Referee Academy Kanto master

浦和に生まれ、浦和で育った。物心ついたころには、サッカーボールを追いかけていた。自然発生的に人が集まり、やることはサッカーと決まっていた。しかし、現在はそのような風景を見ることはできない。何かしらの団体に所属し、しかるべき手続きを経なければ、施設を使用することはできないのだ。私が浦和西高校に勤めていた頃には、様々な団体が西高グランドを使用していた。いつグランドに行っても誰かがボールを蹴っていた。近所の少年達や親子連れも多かったと記憶している。かつての浦和には、人が集まりサッカーを楽しむ場所があったはずだ。西高グランド人工芝化で、サッカー文化を支える発信基地となることを期待しています。浦和西高校グランド人工芝化を応援します。サッカー文化の発展と未来のために!

スペイン・ラスタサッカーファミリー 野崎雅也

2012(平成24)年卒業。スペイン・バルセロナ在住。 浦和レッズユース⇒浦和レッズ⇒アビスパ福岡⇒ガイナーレ鳥取⇒Y.S.C.C横浜⇒AC長野パルセイロ⇒RSF⇒ウニフィカシオン・ジェフィア(スペイン)⇒C.D.FONTSANTA(スペイン)

現在、スペイン・バルセロナの地でサッカーの指導者学校に通いながら、選手としてもプレーしています。

バルセロナで感じることは、恐ろしいまでに体系化された育成システムと、それを実現していく環境、即ち「場」があるということです。 特に環境に関しては、少し街を歩けば人工芝の、しかもバー付きのサッカーのグラウンドがあり、そこに小さい子供から若者・老人までが集まって、実際にサッカーをプレーしながら、それらを見ながら、議論を交わしながら、日々サッカーの文化を熟成させていっていると感じます。グラウンドが人々の集まる場所になっている。それが、スペインがサッカー大国である理由の一つであると思います。

浦和西高校のグラウンドもまた、人々が集まる「場所」になっていくことで、地域に根付き、人々から愛されることに繋がると思いますし、文武両道を掲げる浦和西高校の在り方と重なる部分があると感じます。

多くの人が集まった人工芝化をした綺麗なグラウンドで、またみんなでボールを蹴りたいなと、そう願っています。

H2O設計室一級建築士事務所代表・管理建築士 森 大樹

1987(昭和62)年卒。 1992年、武蔵野美術大学建築学科卒業後に (株)團青島建築設計事務所・(株)ARC設計・小林英治建築研究所を経て1996年、大樹建築造形研究所設立。 2014年、H₂O設計室へ改称。共同主宰・管理建築士

1987(昭和62)年卒業の森大樹と申します。現在はH2O設計室の代表として家具から建築までのデザインをしています。

西高在学中は生徒会長をしていたこともあり、同期会やクラス会のサポート、連絡役を務めています。

西高を母校とする全ての皆さんの思い出の場にもなった第一グラウンドの人工芝化は、日頃お世話になっている近隣の皆さんにとっても砂塵の抑制や緊急利用時の泥濘対策にも繋がってゆくことと思います。この取り組みが実り、大いなる活躍の可能性を持つ、多くの西高生を育む伝統の場として今後も発展してゆくことを祈念しております。

H2O設計室 ホームページ

元浦和西高校長 管野 吉雄

福島県田村市常葉町出身。さいたま市在住。 新座高校長、戸田翔陽高校長等を経て、2011年から2013年まで浦和西高校長。 西高で定年退職後は、埼玉県教育委員会等の勤務を経て、現在は保護司として更生保護活動に従事。 2022年秋の叙勲で瑞宝双光章を受章。

皆さまの大きな愛に支えられている「浦和西高サッカー部・女子サッカー部」
朝も昼も夜も、グラウンドを走り回っていた生徒達の躍動する姿が今も目に浮かびます。
街の中を浦和西高サッカー部のジャージを着て自転車で走る生徒達。
電車の中・駅の構内で浦和西高サッカー部のジャージを着て凛とした佇まいの生徒達。
心の中で「頑張れ!」といつも応援しています。

新聞報道で、西高サッカー部の活躍を見ると、嬉しくなります。
西高在職中から「西高在校生・卒業生(保護者も地域の方も…)の母校愛・西高愛は、
日本一、いや、世界一」と思ってきました。凄いことです。誇ってください。

ちなみに私の妻も、長女も西高の卒業生です(私は、福島県田村市出身)。
彼女達の母校愛も半端じゃありません。彼女達の友だちもみな西高卒業生。

「第一グラウンド人工芝化プロジェクト」の成功を心から応援しています。
頑張れ!!浦和西高サッカー部、浦和西高女子サッカー部
世界へ羽ばたけ!!浦和西高サッカー部、浦和西高女子サッカー部

埼玉県立浦和西高等学校 第29代校長 髙野 能弘

「いつも浦和西高から未来への風は吹く」

このたび輝かしい歴史を誇る浦和西高校サッカー部OB会を母体として(一社)UNSSが設立され、「埼玉県立浦和西高等学校 第一グラウンド人工芝化プロジェクト」がスタートしたことを心よりお喜び申し上げます。

「サッカーのまち・浦和」に独創的かつ新たな未来への風が力強く吹き始めたことに感動しています。これまでも激動の社会をリードし、着実な歩みを進めてきた浦和西高校に力を結集し、この大事業が成功し、末永く多くの方々の生活がより豊かになることを願ってやみません。

健闘を祈ると共に応援します。「自主・自立 輝け 浦和西高校」

合同会社TRIPLE CROWN代表、NPO法人BASEBALL LEGENDS FOUNDATION副代表 節丸裕一

1989年(平成元年)卒業。早稲田大学⇒味の素株式会社⇒1999年からフリーアナウンサー。

サッカー部OBでもない私がコメントするのは気が引けるところもありましたが、グラウンドを人工芝化することで恩恵を受けるのは、サッカー部だけでなく、西高生全員だと感じています。かつては足腰に悪いと言われていた人工芝も、技術の進歩ですっかり天然芝以上に体に優しくなりました。

サッカー部の活躍に刺激され、元気をもらいながら青春時代を過ごしたサッカー部以外の私たちも是非一緒になって、グラウンドの人工芝化実現を応援しましょう。

紅谷弘ニ

1988年(昭和63年)卒業。さいたま市大宮区在住。 浦和西高現役時代は軟式野球部に所属し、初の全国大会出場。西高卒業後青山学院大学法学部を卒業し、大学講師、法律系予備校講師、およびその経営に携わり、都内司法書士事務所勤務の後、平成21年、予防法務のエキスパートとして、心のバリアフリーを目指して、さいたま新都心駅前に紅谷行政書士総合事務所開業。 さらに事務所を発展させ、平成27年、あらゆる士業と専門家集団を結集した総合の法務財務のワンストップサービスを提供する『すばるプロフェッションズ』を結成。代表就任。現在は見守り、看取りのエキスパートとして、人生最後の幕綴じのお手伝いをライフワークにしている。ユーチューバーとしても活躍。

西高グランドの人工芝化の熱い思いを伺い、これを浦和西高の一部の方々だけの盛り上がりではなく、西高に携わるあまたの西高愛にあふれる方々を巻き込んでの素敵な西高再生プロジェクトにできたらいいなと思います。

私は現役時代軟式野球部の主将を務め、一緒に青春を過ごした同期マネージャーは、今も私の人生のマネージャーとして支えてくれています。夫婦そろって西高生の我らもおかげ様をもちまして、今年11月結婚25周年、めでたく銀婚式を迎えることができました。

浦和西高に在籍したからこその素晴らしいご縁に感謝しつつ、ご恩返しのつもりでこのプロジェクトに夫婦そろって協力いたします。懐かしい仲間同士が再び熱い西高魂を共有する良い機会となり、わが母校がますますの発展をしていくことを祈念します。

©️General Incorporated Association UNSS