全ての始まりはサッカーにはまったことから、そして私の人生最初の挑戦であり冒険は、浦和西高を受験して、サッカー部のマネージャーになることでした。しかし当時のサッカー部は女子マネージャーを持たない方針だったので、1年間の見習いの末に2年生から正式に初代女子マネージャーになることができました。そして今はもうない浦和西高グラウンドのセメントのU字ブロックに座って過ごした「石の上にも3年」から、サッカー絡みで世界観が広がり、その後、サッカー好きが高じてスペインのバルセロナに28年住み、その間に他の欧州の国々や南米アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイまでサッカー観戦に行くことができ、今でもサッカーに関わる仕事ができています。
どうしてサッカーにはまったのか?その話をするとかなり長くなります。
その大きな要因は、中学2年生の夏に、父親の仕事先が東京に転勤となり、生まれ育った富山県魚津市から埼玉県浦和市(現さいたま市)に移り住んだことがきっかけでした。そして転校した原山中学校は、西野朗さんの出身校でもあり、サッカー部が強かったし、その冬の第52回全国高校サッカー選手権大会(1974)の埼玉県代表は浦和西高だったことで、直ぐに浦和がサッカーの町であることを感じました。更に中学3年生の時に1974西ドイツW杯の試合をテレビで見たことで、世界のサッカーに大きな衝撃を受けました。そして当時のクラスメート達が「高校に行ったらサッカー部に入りたい」と話していたの聞いて、自分も高校に行ったらサッカーに関わりたいと思い始めました。それで高校受験の参考書を買う前に、改めてサッカーのルールブックを買って読んだものです。
では、どうしてスペインのバルセロナに28年も住んだのか?その話をすると更にかなり長くなります。本当に長いです。
今、振り返ると、時が流れていく中で、『サッカーは楽しい、面白い、飽きない!』の気持ちがずっと続いていること、いつも気になるチームや選手達が存在していたこと、そして幾つかの偶然と幸運が重なったからだと思います。とにかく「試合は最後まで何が起こるかわからない。15秒もあればゴールが決まる!」その期待感がたまりません。
先ずは1974西ドイツW杯決勝:西ドイツ(2-1)オランダ戦を、当時、唯一の海外サッカー番組だった東京12チャンネル(現テレビ東京)の『三菱ダイヤモンドサッカー』で見て、『トータルサッカー』で一世風靡したオランダのヨハン・クライフのファンになり、彼が所属していたスペインのFCバルセロナ(以下、バルサ)を注目するようになりました。
そして無事に入学した浦和西高の1年生の担任が、サッカー部監督の仲西駿策先生であったことが幸運の始まりでした。もっとも先ず最初に言われたのは、「サッカー部は女子マネは持たない方針。もしなるなら馬鹿じゃ困る。」でした。それでもしつこく懇願したら、「直ぐに認めることはできないが、チームの練習記録をつけることから始めてみて、それからどうなるか見てみよう。」と言われました。それからは勉強はなるべく授業に集中し、放課後に練習を、週末は試合を見て、とにかくサッカー部の後ろにくっついて過ごし、そしてサッカー雑誌を買って読み、スコアブックの付け方を覚えて、独自でノートに練習記録を書いて過ごしました。そして1年間の見習いの末に2年生から正式に初代女子マネージャーになることができました。今でも仲西先生を始め、同じ時期を過ごした先輩達、同級生、そして後輩達に感謝しています。
<浦和西高サッカー部(1978年卒業アルバム)>
その仲西先生から「馬鹿じゃ困る。」と言われたこともあって奮起し、浦和西高卒業後は学習院女子短期大学(学習院女子大の前身)への推薦入学が決まっていました。それを仲西先生に報告したところ、「学習院大学サッカー部のマネージャーになれるように頼んでおいたから、入学したらサッカー部監督の滝井敏郎先生を訪ねなさい。」と言われ、正直、とても驚きました。でもそのおかげで大学サッカーの世界を知ることができました。
更に刺激を受けたのは、1978アルゼンチンW杯決勝:アルゼンチン(3-1)オランダ戦をNHKの生放送で見て、俄然、その次の1982スペインW杯の観戦に行きたいと思いました。そして翌年1979ワールドユース(U-19)大会が日本で開催された際、、これまた仲西先生の紹介で大宮公園サッカー場(現NACK5スタジアム大宮)でアルバイトする機会があり、1次リーグB組のセサル・ルイス・メノッティ監督とディエゴ・マラドーナを中心としたアルゼンチン、ポーランド、ユーゴスラビア、インドネシアを、そして準々決勝でスペインの試合を直に見ることができたことも幸運でした。同年代の外国選手達が真剣勝負に挑む姿を目の当たりにして、「彼らがサッカー界の次の世代だ!」と感じ、特にスペインの試合を見て、ボール扱いが巧いプレースタイルが気に入りました。スペインの選手達は、皆、感じの良い選手達で、中でもマルコス・アロンソ(アトレティコ・デ・マドリー、後にバルサでプレー。尚、同じ名前の息子が今季にチェルシーからバルサに移籍している)のファンになりましたが、「試合で頑張ってね!」と、いつかその一言が言いたくてスペイン語を少しずつ独学で始めました。
その後、『三菱ダイヤモンドサッカー』の影響で、「日本サッカー界に貢献している会社に入りたい」一心で、三菱重工の就職試験を受け、当時、東京丸の内にあった本社勤務になりました。そのおかげで日本サッカーリーグの三菱重工業サッカー部(浦和レッズの前身)の選手達と知り合う機会を持ち、毎週のように試合を観戦に行き、三菱重工業サッカー部後援会に入って広報誌作りに関わっていました。又、在職中にスペイン語クラブに入って、メキシコ人の先生について学びました。三菱重工では社会人として良い経験をさせてもらいました。勿論、今でもひいきのチームは浦和レッズです。埼玉スタジアムで浦和レッズがゴールを決めた時に、電光掲示板に三菱重工製の宇宙ロケットが発射されるシーンを見る度に感激してしまいます。
そしてしっかり働きながら、旅行費用と有給休暇を貯めて、会社を首になる覚悟で、中学3年生から目指していた1982スペインW杯を見に行くことができました。初めての欧州の地は、どんより曇った空のイングランドのロンドンでしたが、夜にスペインのマドリーに着いて、翌朝、青く澄み切った空を見て、その美しさに驚いたのを覚えています。同じ空なのに、日本と違って何処までも高く広い空だったのです。そして1982スペインW杯の大会ポスターは、原色を基調にした激しい色使いのデフォルメが特徴なスペインの巨匠ジョアン・ミロが作成したインパクトの強いものでした。
その1982スペインW杯の2次リーグから決勝戦までの試合を観戦したツアーに参加していた人達は、年代も職業も様々で個性的でしたが、各自のサッカーに対する思い入れは半端なかったです。それ以上に印象的だったのが、スペイン人のサッカーに対する情熱と親しみやすさでした。自国開催のW杯でスペイン代表は2次リーグ敗退でしたが、ぶつぶつ文句を言いながらも最後まで「エスパーニャ!(=スペイン!)」と応援し続け、決勝で西ドイツを破って優勝したパオロ・ロッシが主役だったイタリアに「ブラボー!」と大拍手を送っていました。『良いものは素直に認める』そんな度量の広いスペイン人を見て、いつかここに住んでみたいと思いました。
その1982スペインW杯では首都のマドリーが中心で、バルセロナには行くことができませんでした。それで日本に帰ってから、何としてもバルセロナに行きたくて、バルサのクラブの会長宛に「是非ともバルサの試合を見たいのでチケット購入の方法を教えて下さい。」との依頼の手紙をスペイン語で送りました。すると、何とある日、当時のバルサのホセ・ルイス・ヌニェス会長から返事がきたのです。その手紙には「あなたがこの手紙を持ってクラブを訪ねてくれたら、バルサの試合にご招待します。」と書いてあったのです。これはもう行くしかないと思い、その手紙を持ってバルセロナに行き、バルサのクラブ事務所を訪ね、約束通りにカンプ・ノウ・スタジアムのメインスタンドに招待されて試合を見ることができました。このことが大きなきっかけとなり、後に三菱重工を退社し、片道チケットで飛行機に乗り、日本からスペインに旅立ち、気がついたらスペインの主にバルセロナに28年住んでいました。全ての始まりはサッカーにはまったことからでした。
1986年4月から住み始めたバルセロナでスペイン語学校に3ヶ月通った後、縁あってバルセロナ市内観光通訳ガイドを始めました。それはちょうど1986年10月に、バルセロナが1992年夏季五輪開催地に決まったタイミングで、町に活気が生まれ、大きく変化していった頃でした。バルセロナはもともと観光地でしたが、五輪開催地となったことで日本を含めて世界中から更に観光客が押し寄せてきました。バルセロナの町は、カタルーニャモダン主義の代表的なアントニ・ガウディの建築で有名な聖家族教会(サグラダ・ファミリア)やグエル公園、ピカソ美術館、ミロ美術館、そしてバルサのカンプ・ノウ・スタジアム内にバルサスポーツ博物館などがあり、観光客と一緒に回るのは実に楽しかったです。バルセロナはティビダボの丘から地中海に面している港湾都市で、地形が日本の神戸市と似ていることもあって姉妹都市の関係で、1年を通して温暖な地中海性気候で過ごしやすく、その上、食べ物も美味しいし、バルサと共にもう一つのクラブのエスパニョールの試合も楽しめて、何よりもサッカー好きにはたまらない環境でした。
バルサが大きく変わってきたのは、1974西ドイツW杯から好きだったヨハン・クライフが1988年からバルサの監督となり、パスワークを活かした攻撃的で美しいサッカーのプレースタイルで、現在のバルサのサッカー哲学の原点となった『ドリームチーム』の時代を築き上げたことです。しかも当時のバルサはカンプ・ノウ・スタジアムの隣のサブグランドで練習をしていて、日によってはメディアだけなくファンにも一般公開していたので、時間があれば練習を見に行っていました。飛んできたボールを拾うことができる近距離から、選手達と一緒に練習しているヨハン・クライフ監督のプレーを見て目を奪われました。何しろ、現役の選手達よりも際立って巧いのです。選手として憧れていたヨハン・クライフは、監督としてもクレバーで格好良くて優しい方でした。後に彼と話した時に、「サッカーは失敗を繰り返すゲーム、従って常に改善することができる。サッカーを楽しみながら、何度もトライすることが大切です。」と諭してくれました。そして練習が終わると選手達に近づいて話せたり、サインをもらうことができたり、信じられないかもしれませんが、選手の方から「元気?次の試合のチケットは持ってる?」と聞いてくれるなど、親近感がありました。その逸話ですが、両親がバルセロナに来た時に、ある選手から試合のチケットをもらってカンプ・ノウ・スタジアムで家族で観戦した思い出があります。
<ヨハン・クライフ監督(FCバルセロナ:カンプ・ノウ・スタジアム横)>
その後、バルサが低迷した時期もありましたが、2003年からフランク・ライカールト監督の下、『El Mago(=エル・マゴ=魔術師)』と呼ばれたロナウジーニョを中心としたチームで鮮やかに復活し、2008年からペップ・グアルディオラ監督が就任した『ペップ・チーム』で史上初の6冠達成(スペインリーグ、スペイン国王杯、欧州CL、欧州スーパー杯、スペインスーパー杯、クラブW杯)した歓喜も味わいました。思い返すととても恵まれた時代でした。今ではバルサの練習場が、バルセロナ市郊外のジョアン・ガンペール・スポーツセンターに移って、練習も非公開になってしまい、選手達となかなか触れ合うことができなくなったのはちょっと残念です。
忘れられない特別な年は1992年です。5月20日の欧州チャンピオンズ杯(現欧州CL)決勝をロンドンの旧ウェンブリー・スタジアムまで見に行き、バルサが延長でサンプドリアにロナルド・クーマンのゴールで1-0で勝って、クラブ史上初優勝を果たした目撃者になることができました。その19年後の2011年5月28日に、今度は新しくなったウェンブリー・スタジアムでの欧州CL決勝で、バルサがマンチェスターUに3-1で勝った試合を見ることができたのも最良の思い出の一つです。
<2011欧州CL決勝:FCバルセロナ(3-1)マンチェスターU(ウェンブリー・スタジアム)>
又、1992年夏にはバルセロナ五輪(1992年7月25日~8月9日)が開催されました。私はバルセロナ市内観光通訳ガイドをしていた関係もあり、TBSテレビの通訳として関わる機会を持ち、開会式に始まり、主に日本選手達の競技を取材しながら、閉会式まで担当することができました。自分が住んでいたバルセロナの町で五輪が開催された興奮と歓喜で満ち溢れた16日間を経験した暑い熱い夏でした。それだけに2020東京五輪が新型コロナ感染拡大の所為で1年延期になった上に、結局、無観客で行われたのは非常に残念な限りでした。
その1992バルセロナ五輪で、最も印象に残っているのは、日本選手達の活躍もさることながら、8月8日にカンプ・ノウ・スタジアムで行われたサッカー決勝で、スペインがポーランドに大接戦の末、試合終了間際にキコのゴールで3-2で逆転勝ちして五輪初優勝を飾った試合です。スペインは地方性が強く、バルセロナがあるカタルーニャ州はスペイン語の他に、カタラン(カタルーニャ)語が話され、『ここスペインではない!』との意識を持っている人も多く、そのカタルーニャ州の象徴の1つでもあるカンプ・ノウ・スタジアムで、当時のスペイン国王フアン・カルロス1世の参席の下、スペイン代表が優勝してスペイン国旗とカタルーニャ州旗の両方が振られた光景は、おそらく2度と起こらないかもしれません。この五輪からサッカーに年齢制限(23歳以下)が導入されたスペイン代表には、ペップ・グアルディオラ(現マンチェスター・シティ監督)、ルイス・エンリケ(現スペイン代表監督)等がプレーしていました。
<1992バルセロナ夏季五輪:モンジュイク・オリンピック・スタジアム>
バルセロナでの生活の1年のルーティンは、サッカーシーズンと並行して過ぎていきました。8月半ばからスペインリーグが開幕すると、週末はスペインリーグ前半戦、週中は欧州カップ戦のグループリーグの試合で1週間が過ぎていきます。12月末のクリスマス休暇で一息ついた後、新年からまた週末はスペインリーグ後半戦でリーグ優勝争い、そして残留争いが激しくなり、週中はスペイン国王杯、そして欧州カップ戦のベスト16から決勝へと佳境に入った白熱した試合が5月末、6月始めまで続きます。その後は2年毎にユーロ(欧州選手権)、ワールドカップ、そしてコパ・アメリカ(南米選手権)などで楽しみました。夏休みの時期は公式戦はないものの、来季の移籍・補強の話題で楽しみ、7月末からプレシーズンマッチが始まり、また8月半ばから新シーズンが始まるのです。
勿論、長い年月の間には、浮き沈みがあり、ひいきのチームが負けた試合の悔しさで選手以上に気持ちが落ち込むことも多々ありましたが、それは次に勝った試合の喜びで立ち直れたものです。信条の一つとしているのは「負けた試合では決して泣かない」ことです。そして新シーズンが来ると、選手達の移籍や世代交代でなどでメンバーが入れ替わった新チームにまた期待してしまうのでした。
私が住んでいた頃のスペインは、スペイン代表やスペイン1部、2部リーグを中心に、U-23代表からUー12の若手から子供達の試合もテレビで多く放送されていました。更に有料放送に入れば、欧州主要リーグや南米リーグの試合も見ることができたので、気がつくとほぼ毎日、何かしらの試合を見ることができました。そんな中でそれまで知らなかった新しい選手を見つけるのも楽しいものでした。
全くの個人的な見解ですが、そこそこコンプレックスがある選手の方が伸びる可能性があるように思います。それはフィジカルだけでなく、性格や精神的な面と様々ですが、共通しているのは、そのコンプレックスをいつしか逆手にとって個性的な選手に変わっていけることです。初めて見た時の印象はいわゆる普通の若手選手でも、トップチームでプレーするチャンスを掴み、ピッチに入ると特別な輝きを放ち始め、気がついたら無意識のうちに目で追ってしまう選手に変わっていったケースを幾度も見てきました。
例えばバルサでは、試合前に緊張からよくトイレで吐いていたペップ・グアルディオラ(現マンチェスターシティ監督)がベルント・シュスターに、バルセロナ郊外の町から電車に乗って練習に通っていたシャビ・エルナンデス(現バルサ監督)がペップ・グアルディオラに、カタルーニャ州の小さい町の出身で後にバルサのキャプテンとなったカルレス・プジョル(バルサで引退)がパオロ・マルディーニに、12歳で注目されてレアル・マドリーの入団をやめてバルサを選んだアンドレス・イニエスタ(ヴィッセル神戸)がマイケル・ラウドルップに、成長ホルモン分泌異常を抱えてアルゼンチンから13歳でバルサの入団テストを受けたリオネル・メッシ(パリSG)がロナウジーニョに影響を受けたと言っていました。きっとこれは世界共通で、誰にも少なからず影響を刺激を受けた選手がいて、その背中を追いかけながら、日々、練習を続けて成長していった姿を、間近で見てきました。そしてバルサの、スペイン代表の将来を担うペドリやガビは、きっとシャビ・エルナンデスやイニエスタの背中を追って成長しているのだと思います。
尚、1986年9月からバルサのソシオ(会員)となり、現在もカンプ・ノウ・スタジアムの南ゴール裏1階に指定席を持っています。1986年に入会した頃は未だゾーン指定の立見席でしたが、1996年頃からゴール裏にも座席が作られ、自分の指定席を持てるようになりました。
今季でバルサのソシオ(会員)になって37年目となりますが、2011年秋にはクラブからソシオ25周年記念式典の招待状が届き、11月25日にカンプ・ノウ・スタジアムで、ソシオ25周年記念のクラブ紋章の銀バッジと認定感謝状を受け取る出来事がありました。その時、バルサのクラブ事務所に聞いたら、「おそらく日本人ではあなたが初めてです。」と言われ、非公式ながら名誉ある日本人第1号となり、スペインで長く過ごした日々の1つの証になりました。
<FCバルセロナのソシオ25周年記念式典(2011年11月25日:カンプ・ノウ・スタジアム)>
一方、スペイン代表も1982スペインW杯からずっと応援してきましたが、主要大会でなかなかベスト8の壁を破ることができずにいました。しかし気運の高まりを感じたのは2006ドイツW杯でした。スペインは決勝トーナメント1回戦で、決勝に進出したフランスに敗れたものの、そのスペインを指揮した故ルイス・アラゴネス監督が『ティキ・タカ』と呼ばれる複数のパスコースを作りながら、辛抱強く細かいショートパスを繋いで攻撃を仕掛けるプレースタイルはかなりインパクトがありました。そのチームがベースとなり、2008オーストリア・スイス欧州選手権に1964スペイン欧州選手権初優勝以来、実に44年振りに優勝すると、引き継いだビセンテ・デル・ボスケ監督で2010南アフリカW杯初優勝を果たし、更に2012ポーランド・ウクライナ欧州選手権で大会2連覇し、史上初の主要国際大会3連覇の快挙を達成して、『La Roja』(=『ラ・ロハ』=『赤い』の意味でスペイン代表の愛称)旋風を巻き起こしました。ちょうどバルサとスペイン代表が活躍した時期が重なり、負ける気がしない勝機を感じたのは偶然ではないと思います。
尚、スペイン人の名誉のために一言。スペイン代表の選手達は試合前のスペイン国歌を歌わないとよく言われますが、実は現在のスペイン国歌には『歌詞』がないので、歌いたくても歌えないので、「ラ~ラ~ラ」とハミングするだけです。
<シャビ・エルナンデス(FCバルセロナ):2010南アフリカW杯優勝のスポニチ新聞と共に記念写真>
さて、サッカーの取材に関わる様になったのも偶然によるものです。バルセロナ市内観光通訳ガイドをしていた時に、日本から来た団体旅行のお客さんの中に、スポーツ関係の出版社の方がいらして、どうもバルセロナ市内観光の時にサッカーの話をしたのが印象に残ったらしく、「そんなにスペインのサッカーが好きなら、サッカー雑誌の編集部に模擬原稿を出してみたらどうか?」と誘って頂いたことがきっかけでした。それで模擬原稿を送ってみたら、ある日、日本の某サッカー雑誌の編集長から国際電話がかかってきたのです。
<アンドレス・イニエスタ(FCバルセロナ)>
それから、当時、バルサでプレーしていたイングランド代表のゲーリー・リネカーのインタビューを行ったのを皮切りに、バルサのサッカー哲学の基礎を築いたヨハン・クライフ監督、後に日本のJリーグの横浜フリューゲルスでプレーしたパオロ・フットレ(アトレティコ・デ・マドリー)、横浜マリノスでスペイン人ブームの火付け役となったフリオ・サリナス(バルサ)、金髪をなびかせて矢のようなスピードでゴールに向かうクラウディオ・カニーヒア(エラス・ベローナ/アタランタ・ベルガモ)、日本が初めて出場した1998フランスW杯初戦の相手アルゼンチン代表のストライカーのガブリエル・バティストゥータ(フィオレンティーナ)と鬼軍曹のように選手に厳しいが女性には優しいダニエル・パサレラ監督、バルサの低迷期ながら一際輝いていたハビエル・サビオラ(バルサ)、バレンシアのキャプテンでPK、FKの名手のガイスカ・メンディエタ(バレンシア/バルサ)、再びバルサの栄光の時代を築いた中心選手だったロナウジーニョ、シャビ・エルナンデス、アンドレス・イニエスタ、カルレス・プジョル、リオネル・メッシ、2002日本・韓国W杯で日本と対戦したロシア代表のアレクサンドル・モストボイとバレリー・カルピン(セルタ・デ・ビーゴ)、そしてデビュー当時から注目し続け、サガン鳥栖でプレーしたフェルナンド・トーレス(アトレティコ・デ・マドリー/リバプール)等、色んな選手や監督にインタビューすることができました。まあインタビューができるまでにはかなりの時間が必要で苦労しましたが、実際に会って彼らから話を聞けたことは素晴らしい経験でした。
<フェルナンド・トーレス(アトレティコ・デ・マドリ-)>
そして2000年からは縁あってスポニチのスペイン特別通信員を始めました。スペインに住んでいた頃は、スペインリーグにやって来た城彰二さん(バジャドリー)、西澤明訓さん、中村俊輔さん(ともにエスパニョール)、大久保嘉人さん、家長昭博さん(ともにマジョルカ)等を担当しました。
特に城選手の取材のために、バジャドリーに行って約4か月のホテル生活を送りました。一日の始まりは、早朝に地元新聞をキヨスクに買いに行き、城選手やバジャドリー絡みの記事をチェックして日本に情報をFaxで送り、午前11時頃から始まる練習を見に行って、その後、囲み取材をしてその日の情報をFaxで送り、試合はホームもアウェーも同行しました。取材のために初めて携帯電話を持ちましたが、未だパソコンは持っておらず、日本への報告はもっぱら電話と手書きのFaxで行っていました。まるで浦和西高サッカー部時代のように、毎日、練習内容や試合状況をノートに書きまくっていたのです。そしてスポニチにはありがたいことに、日本に帰って来てからもスペインサッカー情報などを担当させてもらっており、アルバイトながら今年で22年目を迎えました。
さて、本当に長くなりました。自分でもよく思うのですが、長いスペイン生活で一番自分が変わったことは、かなりお喋りになって話が長くなったこと、かなり自己主張が強くなったこと、かなり好奇心が強くなったこと、そしてかなり気が長く辛抱強くなったことです。逆に言うと、スペインでは無口で短気だと何事にも苦労するかもしれません。
最後に浦和西高グラウンドについて。私が在学していた時代は、水はけがとても良く、雨が降ってもすぐ乾き、夏になると仲西先生が散水車で水を撒いていたのを覚えています。そして多くの高校サッカー部が浦和西高に練習試合にやって来たし、公式戦の会場になっていました。それが今では雨が降ると水溜りができてしまうのは残念です。しかも現在の高校サッカーの公式戦は芝、人工芝で行うそうなので、浦和西高サッカー部が更なる成長・飛躍を遂げるためには、グラウンド人工芝化が必要なのは明らかです。そのために是非とも応援していきましょう!人生ではどんなに努力しても、いつも夢や希望が叶うわけではありませんが、それでも何とか叶えられるものもあるはず。それが浦和西高グラウンドの人工芝化であってほしいものです。これは正に新たな挑戦であり冒険です!そしてサッカーを色んな形で楽しんでいきましょう!